2016年1月31日日曜日

沼津信用金庫ストリートギャラリー第336回富士山の日制定記念特別企画展


沼津信用金庫ストリートギャラリー第336回富士山の日制定記念特別企画展
平成2821日(月)~228日(土)午前中まで
 富士山の日(223)制定を記念する2月展、今年は安井賞、昭和会賞はじめ名だたるコンクール展に相次いで受賞された現代美術界を代表する櫻井孝美作品展です。
 画伯は世界各地で展覧会を開催、多くの愛好者を有し、殊に昨年ノーベル賞を授与された大村智博士とは長年にわたり親交をもたれ、多くの作品をご自身が館長を務められる韮崎大村美術館に所蔵されています。
 富士山麓に住まわれ、富士とは日々の対峙を通じて、いわば全身でその霊気・精神・熱気を浴びておられます。べ一トーヴェンが音楽を通じて自由・人類愛を歌い上げたように画伯は原色の鮮やかな色彩と奔放なタッチで家族愛・人間讃歌そして自然と共生する喜びを描かれました。

 2016年が輝かしい年であることへの願いを込め、また美しい自然に富む日本に生きる喜び、幸福を感じて頂ければ幸いです。 (ぬましんストリートギャラリー)




2016年1月31日櫻井孝美作品展

画家桜井さん個展
「富士山」の大作も沼津
 1988年に「画壇の芥川賞」と言われた安井賞を受賞した画家桜井孝美さん(71)=山梨県富士吉田市"の個展が28日まで、沼津市大手町の沼津信用金庫で開かれている。
 油彩画15点を店内外に展示した。約20年前から親交があるノーベル医学生理学賞の大村智北里大特別栄誉教授と桜井さんの家族を織り込んだ200号の新作を飾った。昨年13月、大村さんが館長を務める韮崎大村美術館(山梨県韮崎市)で個展を開いた際の風景をモチーフにした。
 店外のストリートギャラリーには223日の「冨士山の日」にちなみ、主要な題材である富士山を描いた大作を並べた。桜井
さんは「作品を通じて生きる喜びを感じてもらえたら」と話した。
【静新平成2823()朝刊】
富士山の日特別企画展
 28日までストリートギャラリー
 大手町の沼津信用金庫本店横のストリートギャラリーでふ富士山の日特別企画展「櫻井孝美作品展-緑と水と太陽-燦めく日々」が二十八日まで開かれている。
 山梨県在住の現代美術家、櫻井孝美さんが手掛けた、富士山をテーマとした絵画十点が展示されている。いずれも鮮やかな色彩で陽光を浴びる富士山の雄姿を描き出している。
 櫻井さんは日本大学芸術学部卒業後、山梨県庁で織物デザイン技師として勤務するかたわら、富士吉田市に暮らして富士山の姿を描き続けてきた。同県出身のノーベル賞受賞者大村智さんと親交を結び、大村さんが開設した韮崎大村美術館にも櫻井さんの作品が収蔵されている。
 夜間は十時までライトアップされている。

【沼朝平成2829()号】


2016年1月27日水曜日

バイリンガルゥォークin沼津 会員が通訳 [おぷと ]

バイリンガルゥォークin沼津 会員が通訳


 子育てや地域の話題について英語で語り合う育児サークル「バイリンガルマムズin沼津一は26日、古着店を巡る「バイリンガルウオークin沼津」を沼津市内で行った。市内在住の外国籍の母親らに、沼津をもっと知ってもらう企画で、市と協刀して初めて開催した。
 日本、米国、韓国、パキスタン出身の子育てママと子どもたち約20人が、市職員と一緒に市内の古着店4店などを歩いて訪問した。今月オープンした同市大手町の「おぷと」では、市職員が店主の山口健一さん(43)に「服はどこで仕入れてますか」などと質問し、同サークルのメンバーが質問内容を英語で説明すると、外国籍のママたちは興味深そうに聞き入った。
 韓国籍のイ・へーヨンさん(45)は「良さそうな店がたくさんあるけれど、1人ではなかなか入りづらかった。良い機会になった」と笑顔で話した。同サークルと市は、今後も月に1回程度ウオークを開催し、野菜や和物を販売する店を訪問する予定という。

【静新平成28127()朝刊】

2016年1月19日火曜日

「昔、あそこに映画館があった」佐野俊夫

「昔、あそこに映画館があった」佐野俊夫

 沼津朝日元日版の楽しみに「昔の商店街」の紹介がある。今年は「上本通り商店街」で、仙石規先生が害いている。略図で話題になるのは映画館。沼津大空襲で廃墟になった沼津の市民が明るく楽しい気持ちで復興に邁進するように、と「沼津市娯楽機関建設計画」が立てられ、翌年の昭和二十一、(一九四六)年には映画館が六館も建設された。(『沼津市史・史料編現代』)正月三カ日には一万一千人の観客があったという。
 昭和二十(一九四五)年、中学生になって嬉しかったのは、映画館へ一人で入れることだった。国民学校では父兄同伴が規則だったが、食うのがやっとの時代、子どもに付き合って映画館なんかとんでもないことだった。「マレー戦記」や「ハワイ・マレー沖海戦」などは、隊列を組んで映画館まで行進した。そして必ず感想文。そこに少国民としての気迫、決意が不十分だと叱られた。
 中学校だって「学校ニ於テ許可ナキ興行場ニ出入スベカラズ」と「生徒心得」にはあった。見つからずに見るスリルは映画への喜びを高めた。
 ニュース映画などで天皇、皇族が映る時は、あらかじめ字幕に「脱帽」と出る。脱帽し姿勢を正さなければならない。
「やれやれ」と言ったのを特高に聞かれ、検挙、不敬罪で起訴される時代だった。
 怖いのは特高だけではなく、先に入っている上級生に見つかると、校庭の隅で規律違反だと殴られた。こんな理不尽な話はない。
 敗戦後、外国映画の名作が次々と上映された。仙石先生も、「支配人に映写室に入ることを許されたり、特別割引の切符を学校で販売させてもらったり『シネマパラダイス』でした」と同紙に書いている。部員以外の中学生にとってもガクワリ(学生割引)は大きな魅力で、ほとんど座れない満員の映画館で夢中だった。
 昭和二十一年、GHQは「日本人といえども接吻をしているに違いない。作ってみたらどうか」ということで、キスシーンのある映画がいくつか作られた。
 ジョン・ダワーは『敗北を抱きしめて』(岩波書店)の中で、「民衆のエネルギーと不満、本物の変革のための政治や抗議行動をそらすため占領軍当局と保守政治家がすすめた」と書いている。最近の風潮と余りにもよく似ている。
 テレビで言えば、考えたり討論したりし合う番組に代わって、悪ふざけの番組が増えた。しっかりと物を言ったり問題提起するキャスターを交代させる。「一億総参加」ではなく、かつて大宅壮一が指摘した状態そのものではないか。
 昭和四十六(一九七一)年、名門の日活は経営不振を挽回すべくロマンポルノ路線に転換した。毎月六本、セックスシーンを適宜入れさえすれば興行面での圧力は少なく、どんな脚本をどう撮るかも自由ということは、若い才能に活躍の場が与えられた面もあり、八〇年以降の日本映画を支えた人材が輩出した。
 昔、映画館通いをしていた「映画漬け」達も、すっかり老いた。今は、家にこもってテレビを見ているという。歩くのが大儀になったこともあろう。
 「映画は映画館で見なくては…」と力説していたのは、この映画を見ようと決意し、映画館まで出かけて行く。一人になりきって画面と対決する。テレビでたまたま、この映画をやっていたので、くつろぎながら見るのとは異なる。 「沼津には、もう映画館はなくなってしまった」という。いわば「複合映画館」と言われるシネコンが誕生したのは九三年。今は全国ほとんどこの形態だという。映像、音響の設備に特に工夫を凝らし、映画館の形態を変えた。
 新しいものにためらいがあったり、昔ながらの映画館への郷愁からシネコン嫌いだったら挑戦が必要だ。今どきの映画や若者達の主張を知るには、出かけてみることだと思う。(住吉町)

【沼朝平成28119()号】