2010年8月30日月曜日

日枝神社祭典:当番町

沼津市事業仕分け

 沼津市事業仕分け
 市民と識者 判定異なる事業も
 沼津市の事業仕分け初日の28日、市民文化センターで無作為抽出の市民65人が2グループに分かれて24件の判定に臨み、対象の70%に当たる17件を「要改善」と判断、費用対効果が薄いなどとして3件を「不要」とした。
 不要と判断されたのは、ぬまづ産業振興プラザ運営事業(2660万円)、自動交付機運用経費(3060万円)、少年の船事業(1390万円)。識者(仕分け人)と当局の質疑、市民判定人が評価した最後に、参考意見として識者が評価する方式を採った。3件を識者は「民間で実施」「要改善」と判断したが、市民がより厳しい判断を下した。
 識者より市民が手厚い評価をしたケースも含めて判定が異なった事業は8件あった。コーディネーターを務めた浜松市企画部の上久保明治さんは「地域事情を知っている分、温かみも厳しさもあるのでは。私たちより厳しい判定が出た時には驚いた」と話した。
 市によると、判定人に無作為抽出の市民を充てるケースは県内で初という。判定人を務めた同市大岡の関野理恵さん(39)は「生活で触れている事業、そうでない事業の両方があり不安だったが、質疑が分かりやすかったので良かった」と感想を話した。
▽要改善 企業立地促進事業(1億660万円) 放課後児童クラブ運営事業(9,750万円) 公園維持事業(4,870万円)図書館資料整備事業(4,700万円)
▽民間 ナティ駐車場管理運営事務経費(3,790万円)
▽「現状維持」または拡充 多様な保育サービス事業・民間保育所(2億7,800万円) 戸田造船郷土資料博物館管理運営費(1,130万円)
▽不要 ぬまづ産業振興プラザ運営事業(2.660万円) 自動交付機運用経費(3,060万円) 少年の船事業(1,390万円)
(静新平成22年8月29日朝刊)

 沼津市事業仕分け終了
 市民判定人が積極発言
 沼津市の事業仕分けは最終日の29日、21事業について審査し、18件を「要改善」、3件を「不要」と判定して終了した。2日間で取り扱った44事業のうち「要改善」が35件と8割に上り、「不要」が6件、「現状維持・拡充」が2件、「民間で実施」が1件と続いた。
 「不要」の3件はシルバー人材センター育成事業(1350万円)、はり・灸・マッサージ治療費助成事業(1300万円)、公共交通活性化事業(5300万円)。「補助を前提とした予算編成になっている」(シルバー人材センター育成事業)などが主な理由。全体的には▽事業の目的に対して成果が見えない▽検証が不十分だーといった指摘とともに「不要」と判断されたケースが多く見られた。
 無作為抽出の市民判定人が行った事業仕分けは県内初で、この日も90人の傍聴者が席を埋める中、識者(仕分け人)による質疑と市民判定人の評価、意見交換を行った。仕分け人を務めた京都府議の熊谷哲さんは終了後、「市民判定人の発言が今までの経験にはないほど多く、すごいこと。今日の視点を今後のまちづくりに役立ててほしい」と呼び掛けた。
▽要改善 言語教育推進事業(1億2700万円) 生活バス路線運行事業(6300万円) 公営住宅整備推進事業(5億円) イベント展開事業(7500万円) 市民体育館運営費 (3150万円)
▽不要 シルバー人材センター育成事業(1350万円) はり・灸・マッサージ治療費助成事業(1300万円) 公共交通活性化事業(5300万円)
※「民間」、「現状維持または拡充」、「国・県広域」はなし
(静新平成22年8月30日朝刊)

2010年5月21日金曜日

花華会植栽作業5月21日朝

インパール作戦


 高架化事業は「インパール作戦」
京都府立大 宗田好史准教授が講演
 各地で後始末に追われ
 行政描く像とは異なる現実


 沼津市商店街連盟(芦川勝年会長)は十八日、公開セミナーをブケ東海で開催。京都府立大の宗田好史准教授による「中心市街地の創造カー暮らしの変化をとらえた再生への道」と題する話を聴いた。宗田准教授は、京都市をはじめとした各地で、まちづくり委員として大型店舗の出店規制にかかわり、中心市街地の活性化など商業都市計画に取り組む一方、観光に関する研究と実践的活動を続けている。
 宗田准教授は、三ケ日町(現浜松市北区)生まれの五十四歳。浜松北高から法政大工学部建築学科、同大学院を経てローマ大学大学院などで都市・地域計画学を専攻し、歴史都市保存計画、景観計画を研究。国連職員を経て一九九三年から現職。工学博士。
 教員の傍ら、休日には三ケ日でみかんを栽培しているという宗田准教授。子ども時代、沼津駅から三津の水族館へ行って修善寺温泉に宿泊し、熱海を経由する旅行の思い出を語った。
 本題に入ると、現在は、高度経済成長期と違い、工場誘致や工業団地を造る時代ではない、とするところから話を始めた。
 全国の地方都市では中心市街地が空洞化。人口が減り、店舗が消えている。政令指定都市でも札幌、仙台、新潟、浜松などで中心市街地の商業が衰退しているが、中核市は、ほぼ全滅。さらに特例市は厳しく、沼津も大苦戦している、として、一九%の店舗がシャッターを下ろしている点に言及。
 東京などでは都心回帰が進むが、郊外の開発を進めた多くの地方都市と同様の危機が沼津に忍び寄っている、として「沼津の商業も大転換期にある」と指摘。
 明治以降の沼津の歴史を振り返り、一八八九年の東海道線開通によって駿東・伊豆最大の流通拠点となって都市として成長したが、「現在、都市と呼べるのは東京しかない。一極集甲のせいだ」との考えを示した。
 「『沼津は新幹線駅がないからさびれた』と言う人がいるが、(一九六四年に新幹線駅が開設した)三島も(八八年に出来た)富士も栄えていない」とし、沼津は東名高速の開通によって首都圏製造拠点になったが、その要因は水資源と優秀な労働力にあったと分析。続いて、沼津市中心市街地活性化基本計画を取り上げ、うたい文句の「人が輝き躍動するステージ」については、「その通り」だとする一方、高次都市機能の集積を理由に沼津駅北口に会議場を建設する計画に対しては「新幹線が止まらないのに…」と疑問を呈した。
 また、鉄道高架事業については、「ハコモノを造れば人が集まると勘違いしていないか。(沼津駅前再開発ビルの)イーラdeで懲りているのではないか」とチクリ。
 鉄道を高架にする連続立体交差事業は各地で後始末しなければならない事例が多い、とした上で、「業界では『インパール作戦』と呼んでいる」と、第二次大戦で兵たん補給を軽視したずさんな作戦によって歴史的敗北を喫し、「無謀な作戦」の代名詞ともなっている同作戦を挙げた。
 また、「連続立体交差は、行け行けドンドン、その責任は誰も取っていない。(完成しても)その周りは駐車場だらけとなる」と、行政などの推進派が描く将来像とかけ離れていることを示した。
 「区画整理で土地を売って現金を手にした人も、その金を地元で使うことなく東京の不動産を買うなどして首都圏に吸い上げられる。沼津にとっては惨憺(さんたん)たるもの」だとした上で、「事業を推進する人が事業資金を用意すべきで、総額千六百億円かかるなら地元が五百億円ほど投資すべきだ。それができなければ経費を削るべきだ」と主張。
 さらに、市や県の財政、国庫補助には鉄道高架事業の負担に耐える体力が残っているのか、また将来の市街地像が明確に共有化されているか、と不安視する一方、沼津市は高校が多いことから中心市街地に若者が多いとの感想を述べ、「その有利をいかに生かすか」が課題だとした。
 都市・地域計画の課題は、四十年後に日本の総人口が一億人を割り、その四割が高齢者となり、少子化による労働力の減少、農山村・郊外の空洞化が見込まれる中で、発想の転換の必要性を示唆。戦後六十年、毎年、百万人の都市が一つずつ増えた時代が去り、これからは毎年、七十万人都市が一つずつ消えていく時代だという。
 沼津市の人口は、二十五年後には現在の四分の三の十五万七千人に減少すると予測されているが、合計特殊出生率の低下により「人口減少は止めようがない」と指摘。
 また道路網の整備などによる流通革命は現在も続いているが、郊外大型店舗が永遠に続く保証はなく、「東京では再都市化(都心回帰)が起きている。(沼津は)魅力ある街をいかに造るかが問題」だとした。
 さらに、消費構造が変わったこと、共働き家庭が増え、家で料理をしなくなったことにより加工食品購入費と外食費が大幅に増加している反面、生鮮食品の消費量が減少していることを挙げた。
 都心回帰が起きている都市では、最初に個人の飲食店が増え、次いで美容院、コンビニエンスストア、最後にファッションの個店が出来てにぎわいを取り戻していることを指摘する宗田准教授は、「『再開発ビルを建てればデパートが入る』と考えるのは勘違い」だとして行政の再開発ビル頼みによる都市政策を批判。
 続いて、にぎわいある都市はなぜ必要か、行政と商業組織・個店の役割分担、都心商業が再生する行政と民間の方策は何か、個性と活力あふれる地方都市の再生、都心ににぎわいが生まれる工夫などについて解説。
 「道路網整備によって商業形態が変わったことを理解しなければ商売は成り立たない。きれいな街を造れば新規投資が起き、店の種類が増えて店舗数も増える」とし、飽きずに続けることが「商い」だという封建的な考えを捨てるよう説いた。
最後にピーター・ドラッカーの「小売業は変化対応業」だという言葉を挙げた。
(沼朝平成22年5月21日号)

2010年4月3日土曜日

第7回代戯館まつり「真野文二展」記念講演会沼朝記事

「眞野文二テーマに講演会」 上
 代戯館まつりで2人を講師に
 第7回代戯館まつり(同実行委主催)の記念講演会が、大手町のぬましん四階ホールで開かれた。工学博士真野文二をテーマに二人の講師が講話。はじめに国立科学博物館の鈴木一義主任研究員が講師を務め、近代日本がどのようにして技術大国に至ったかを話した。


○ はじめに工業の近代化
 国立科学博物 館鈴木一義主任研究員
 鈴木主任研究員は「アメリカを模倣する時代は過ぎた」と独自のものづくりを行うことの大切さと、元となる志の高さを培ってきたのが真野文二らだ、として話を進めた。
 鉄鋼の金型は、海外工場を含め世界の約半分を日本が作っているようなものだという。3Kと言われた産業は新興国に移っており、アメリカをはじめ先進国はトン当たり一万円のものから十万円の製品を手掛ける。
 先進国では日本だけがトン当たり一万円の製品を作っているが、「世界の高層ビルも日本の鉄を使わなければ建たない。江戸時代から、技術を極めるのが変わらないものづくりの姿であり、その価値を認めなければいけない」と指摘。
 トン当たり一万円の産業分野を、どのように付加価値の高いものにするか、生かしていくかが課題だという。
 また、建物の構造に関して、日本は地震や台風が多いために揺れに合わせることができる柔構造体で造らざるを得ず、石を積み上げて造る剛構造の建物が多い中国と違う点を説明。現存する世界で唯一の反射炉である韮山の反射炉は、煉瓦を積み上げた剛構造だが耐震補強が施してある。
 当時の日本には煙突の観念はなかったので「何のために、これ(反射炉の煙突構造)があるのか分からなかった」という。
 煙突によって風を炉の中に入れ酸化と還元を進めるのが目的で、本来は大量に溶解するだけでなく、スチールを作るためのものだが、日本の反射炉は鋳物を作るのにしか使われていなかった。溶解した鉄を精錬してスチールを作ることについては、「努力した結果、幕末に気付いた」。
 オランダ語の専門書を日本人が独学で翻訳しながら組み上げたもので、そこには試行錯誤もあったが、現代では強固な素材としてカーボンナノチューブがあり、煙突どころか、宇宙に延びるエレベーターの構想が真剣に考えられているほど。
 鉄工業については、長崎製鉄所が国内最初の機械による技術を導入したことや新日鉄の八幡製鉄所が多様な鋼材を作るシステムを作ったことなどを説明した。
 また、機械については、ロシアから入ってきた工作機械を見世物にしている幕末期の絵を紹介。この機械は手動で歯車を回
して木材を切るもので、ノコギリではなく機械で切るという認識を早い時期に庶民が持つことができた。日本には見慣れない先端機械を見世物として見せる風習があったのだという。
 「見世物になるということは(庶民の)関心も高かった。工作機械を自分達でどう作るか。日本は在野(民間)から職人的な技で近代化を成し遂げた」といい、幕末に薩摩藩に入った帆船の帆を作る紡績機械は、東京にも伝わり、浅草で見世物になった。
 しかし、造られた機械は、木製の機織機を並べたものを一つの水車で回して動かすもので、金属で出来た本物とは似ても似つかない。「全然違うものだったのに、(これが)鹿児島に入ったものだ、として見世物になっていた」という。
 鈴木主任研究員によれば「(日本は)十九世紀にならないと科学と工業が結びつく(サイエンス&テクノロジー)ことはなかった」。
 工業については、奈良時代には百万塔陀羅尼というのがあり、四年間で百万基の塔を造って「陀羅尼経」を納めたという記録があり、「八世紀に大量生産をやっていた。その加工技術があった」ことがうかがえるという。
 「機械にとって重要なのは動かなければいけないこと。歯車にしても噛み合わせの理論がなければ動かないので、職人は技術だけでなく先端の学問にふれていた」
 沼津兵学校については「徳川家が全国から優秀な人材を集めて次の時代を担う人材を育成しようとした。今は(西洋の)一方的な価値観の中にいるが、明治時代の人は和と洋の比較ができた。その後の(学問の)方向が間違っていなかったのは、価値観を比較できたためではなかったか」とし、兵学校の科目や進級システム、附属小学校、などにも触れ、「今よりも素晴らしいシステムであった気もしないではない」と話した。
 また、後の東大工学部である工部大学校に言及。「世界で最初の工学中心の大学で、ものすごい厳しかった。ほとんど休みがなく土曜日が毎週試験で、これは全て原語で行われていた」という。
 この大学の教授らが行った研究は「日本をどう富ませるか。社会にどう役立てるかというもので、科学だけをやっていたのではない。伝統的に産学連携だった」と説明した。
(沼朝平成22年4月2日(金)号)

「眞野文二テーマに講演会」 下
 沼津兵学校めぐる親族
 総合研究大学院大学 樋ロ雄彦准教授
 

 まず文二の父親、肇(一八四一~一九一八)について。肇は江戸幕府の陸軍士官で旧名、覚之丞(かくのじょう)。江原素六より一歳年上だった。文二は肇二十歳の時の子どもだが、親子揃って兵学校入学という珍しい例として挙げた。
 江戸城無血開城の前日、肇ら三人の士官が勝海舟に宛てた意見書を『勝海舟全集』別巻から引用。
 「江戸城開城の直前に官軍にあくまで交戦しようという幕臣が多かった。慶喜の意思に反することはできないので、上官には従えない。臆病者と言われるかも知れないが…」といった気持ちがつづられている。
 肇は恭順派の一人だったことが分かるが、江原も恭順派。江原は主戦派を説得に行くが、説得できずに戦争に加わらざるを得ない状況になってしまう。
 江原は肇の上官だが、交流があったことは明治史料館に残されている個人的なやり取りの史料から分かるという。
 肇も最終的には江原のように教育者となったが、最初は陸軍士官を目指した。明治元年に沼津に来て、兵学校で学んだ後、同校附属小学校が公立の小学校に生まれ変わった集成舎の教師を務めている。沼津に残って教師を務めたのは明治七年までで、この年、文二と共に東京へ。
 肇は数学が得意で、沼津でも数学を教えていたが、東京で陸軍兵学寮、海軍兵学寮に移り、数学と航海術を担当。その後、いくつか替わった学校でも、一貫して数学の教師で、最後には、旧幕臣の子弟育成のために旧幕臣が資金を出し合って開いた育英學(いくえいこう)の教師を務めた。
 沼津兵学校で教えていた数学は、当時としては優れた内容で知られ、同校教授の塚本明毅が著した『筆算訓蒙』は名著と言われる。
 明治八年、肇が、同じ兵学校で学んだ岡敬孝と共に著した『筆算訓蒙解』では、端書きに塚本に教わる機会があったことを「拱壁(きょうへき=壁を大切に抱えるように、宝物のようなもの)とす」とあり、『筆算訓蒙』が「初めて西洋の算術を学ぶのに宝物のようなものだった」と言い、その数学を解説することを目的としたものだという。岡は、肇の妹の夫。
 明治二十三年に開かれた古物展覧会の出品資料には、肇の出品として先祖が使った甲胃が記されている。真野家の先祖は織田信長の次男に仕え、小牧長久手の戦いでは豊臣秀吉と戦った旗本。
 先祖代々の品を伝えていた家柄を肇も誇りとしていて、後に文二がクリスチャンになった時には大反対だったという。
 文二の最初の妻は二十代で亡くなり、葬式では親せきの姿すら見えず変な雰囲気だったことが、関係者の残した史料で分かる。
 文二の妻もクリスチャンだったが、真野家は代々寺に埋葬していたことから、妻の葬儀はキリスト教と仏式の両方で行ったが、肇は「其怒気は未だをさまらぬものか又は余を見て更に発したるものか身を震はせ言葉もよくはいでず」と怒り心頭だった様子で、文二は「傍らに見る真野氏はいと面目なげに見えたり」とある。
 文二は、その後、後妻をもらうが、この妻も亡くなり、三人目は最初の妻の妹をもらっている。
 次に登場するのは肇の四歳年下の弟である大岡忠良。忠良も兵学校で学んだ。資業生として在学中に名古屋藩の兵学校に教師として招かれた。
 当時、沼津兵学校には他の藩から「教えに来てほしい」という依頼が殺到。教員から生徒に至るまでが各藩に教えに行き、これを「御貸人(おかしびと)」と言った。
 忠良も数学を教えたが、肇のように最後まで教師を通したのではなく、晩年は新聞記者として過ごした。
 樋口准教授によれば、文二の手紙から「大岡という人は正直成功しなかったので、あまり豊かではなかったが、お酒が好きだったようだ」という。
 また岡敬孝は忠良と同期で、沼津兵学校の資業生として最後まで残った六十三人の一人。陸軍兵学寮の教導団に編入されたが、忠良も岡も兵学寮を飛び出し、兵歴をまっとうしなかった。
 岡は報知新聞の草創期を担った経歴を持つ人物達の中で紹介されている。
 「彰義隊に加わった血気盛んな時期もあったようだが、兵営生活が厳しいし、薩長に嫌気が差して飛び出した」のだという。
 樋口准教授は明治史料館に学芸員、主任学芸員として勤務した十七年間、岡について「東京のお墓も調べたが、どこに行った。子孫も見つけ出せずにいる。どこか子孫がいるはずだと思う」と残念がる。
 肇の娘の舅となった飯野忠一も岡らと兵学校の同期で、後に科学の教師となった。
 「真野文二には、こういう親せき、おじさんがいた。数学の先生が少なくなかったということが言える」として、文二が工学方面に進んだ素地があったことを示唆した。
 樋口准教授は「機械工学的なことを沼津で学ぶような機会があったかというと、それはなかったと思う。兵学校の学科には、資業生にも本業生の砲兵の学科にも器械学があった。教科書もノートも見つかっていないので、何を教えたかは分からない」とし、兵学校の器械学については謎だという。
 ほかにも兵学校で教えた機械関連のことを考える材料があり、静岡藩の軍事を担当する部署に軍事係付御職人という肩書の人が二人出てくる。兵学校には大砲や銃があったため銃砲関係の職人であった可能性が高く、小銃の修理や製造などを担当したことが書かれている。
 明治政府の記録の中には、兵学校の残具整理の記録があり、兵学校に残されていた器械を引き上げたことが記され、「兵学校に何らかの器械があったことは間違いなかったようだ」と樋口准教授は最後に、「文二は数学が得意だったことを頭にとどめておいてもらえば、理解が深まるのではないか」と工学との関連を改めて示した。
(沼朝平成22年4月3日(土)号)

2010年3月14日日曜日

第7回代戯館まつり「真野文二展」

第7回代戯館まつり「真野文二展」
3月15日~4月3日
ぬましんストリートギャラリー
3月27日(土)
記念講演会
ぬましん大ホール




 工学博士 真野文二を紹介 沼津ゆかり
 写真や講義ノートなど展示
 沼津市にゆかりの深い人物を取り上げた「工学博士真野文二展」(代戯館まつり実行委員会主催)が4月3日まで、同市大手町の沼津信用金庫本店のストリートギャラリーで開かれている。
 明治時代に沼津兵学校と同付属小学校で学んだ真野肇、文二親子の功績をたたえ、当時の写真や文二の東京帝国大学時代の講義ノートなどを展示している。当時の日本の機械技術水準を知ることができる日本機械学会の第1号会報誌など貴重な資料も目を引く。
 関連イベントとして、国立科学博物館の鈴木一義主任研究員と国立歴史民俗博物館や総合研究大学院大学で准教授を務める樋口雄彦さんによる記念講演会が27日午後1時から、同信金ホールで開かれる。入場無料。
(静新平成22年3月26日(金)朝刊)