2010年4月3日土曜日

第7回代戯館まつり「真野文二展」記念講演会沼朝記事

「眞野文二テーマに講演会」 上
 代戯館まつりで2人を講師に
 第7回代戯館まつり(同実行委主催)の記念講演会が、大手町のぬましん四階ホールで開かれた。工学博士真野文二をテーマに二人の講師が講話。はじめに国立科学博物館の鈴木一義主任研究員が講師を務め、近代日本がどのようにして技術大国に至ったかを話した。


○ はじめに工業の近代化
 国立科学博物 館鈴木一義主任研究員
 鈴木主任研究員は「アメリカを模倣する時代は過ぎた」と独自のものづくりを行うことの大切さと、元となる志の高さを培ってきたのが真野文二らだ、として話を進めた。
 鉄鋼の金型は、海外工場を含め世界の約半分を日本が作っているようなものだという。3Kと言われた産業は新興国に移っており、アメリカをはじめ先進国はトン当たり一万円のものから十万円の製品を手掛ける。
 先進国では日本だけがトン当たり一万円の製品を作っているが、「世界の高層ビルも日本の鉄を使わなければ建たない。江戸時代から、技術を極めるのが変わらないものづくりの姿であり、その価値を認めなければいけない」と指摘。
 トン当たり一万円の産業分野を、どのように付加価値の高いものにするか、生かしていくかが課題だという。
 また、建物の構造に関して、日本は地震や台風が多いために揺れに合わせることができる柔構造体で造らざるを得ず、石を積み上げて造る剛構造の建物が多い中国と違う点を説明。現存する世界で唯一の反射炉である韮山の反射炉は、煉瓦を積み上げた剛構造だが耐震補強が施してある。
 当時の日本には煙突の観念はなかったので「何のために、これ(反射炉の煙突構造)があるのか分からなかった」という。
 煙突によって風を炉の中に入れ酸化と還元を進めるのが目的で、本来は大量に溶解するだけでなく、スチールを作るためのものだが、日本の反射炉は鋳物を作るのにしか使われていなかった。溶解した鉄を精錬してスチールを作ることについては、「努力した結果、幕末に気付いた」。
 オランダ語の専門書を日本人が独学で翻訳しながら組み上げたもので、そこには試行錯誤もあったが、現代では強固な素材としてカーボンナノチューブがあり、煙突どころか、宇宙に延びるエレベーターの構想が真剣に考えられているほど。
 鉄工業については、長崎製鉄所が国内最初の機械による技術を導入したことや新日鉄の八幡製鉄所が多様な鋼材を作るシステムを作ったことなどを説明した。
 また、機械については、ロシアから入ってきた工作機械を見世物にしている幕末期の絵を紹介。この機械は手動で歯車を回
して木材を切るもので、ノコギリではなく機械で切るという認識を早い時期に庶民が持つことができた。日本には見慣れない先端機械を見世物として見せる風習があったのだという。
 「見世物になるということは(庶民の)関心も高かった。工作機械を自分達でどう作るか。日本は在野(民間)から職人的な技で近代化を成し遂げた」といい、幕末に薩摩藩に入った帆船の帆を作る紡績機械は、東京にも伝わり、浅草で見世物になった。
 しかし、造られた機械は、木製の機織機を並べたものを一つの水車で回して動かすもので、金属で出来た本物とは似ても似つかない。「全然違うものだったのに、(これが)鹿児島に入ったものだ、として見世物になっていた」という。
 鈴木主任研究員によれば「(日本は)十九世紀にならないと科学と工業が結びつく(サイエンス&テクノロジー)ことはなかった」。
 工業については、奈良時代には百万塔陀羅尼というのがあり、四年間で百万基の塔を造って「陀羅尼経」を納めたという記録があり、「八世紀に大量生産をやっていた。その加工技術があった」ことがうかがえるという。
 「機械にとって重要なのは動かなければいけないこと。歯車にしても噛み合わせの理論がなければ動かないので、職人は技術だけでなく先端の学問にふれていた」
 沼津兵学校については「徳川家が全国から優秀な人材を集めて次の時代を担う人材を育成しようとした。今は(西洋の)一方的な価値観の中にいるが、明治時代の人は和と洋の比較ができた。その後の(学問の)方向が間違っていなかったのは、価値観を比較できたためではなかったか」とし、兵学校の科目や進級システム、附属小学校、などにも触れ、「今よりも素晴らしいシステムであった気もしないではない」と話した。
 また、後の東大工学部である工部大学校に言及。「世界で最初の工学中心の大学で、ものすごい厳しかった。ほとんど休みがなく土曜日が毎週試験で、これは全て原語で行われていた」という。
 この大学の教授らが行った研究は「日本をどう富ませるか。社会にどう役立てるかというもので、科学だけをやっていたのではない。伝統的に産学連携だった」と説明した。
(沼朝平成22年4月2日(金)号)

「眞野文二テーマに講演会」 下
 沼津兵学校めぐる親族
 総合研究大学院大学 樋ロ雄彦准教授
 

 まず文二の父親、肇(一八四一~一九一八)について。肇は江戸幕府の陸軍士官で旧名、覚之丞(かくのじょう)。江原素六より一歳年上だった。文二は肇二十歳の時の子どもだが、親子揃って兵学校入学という珍しい例として挙げた。
 江戸城無血開城の前日、肇ら三人の士官が勝海舟に宛てた意見書を『勝海舟全集』別巻から引用。
 「江戸城開城の直前に官軍にあくまで交戦しようという幕臣が多かった。慶喜の意思に反することはできないので、上官には従えない。臆病者と言われるかも知れないが…」といった気持ちがつづられている。
 肇は恭順派の一人だったことが分かるが、江原も恭順派。江原は主戦派を説得に行くが、説得できずに戦争に加わらざるを得ない状況になってしまう。
 江原は肇の上官だが、交流があったことは明治史料館に残されている個人的なやり取りの史料から分かるという。
 肇も最終的には江原のように教育者となったが、最初は陸軍士官を目指した。明治元年に沼津に来て、兵学校で学んだ後、同校附属小学校が公立の小学校に生まれ変わった集成舎の教師を務めている。沼津に残って教師を務めたのは明治七年までで、この年、文二と共に東京へ。
 肇は数学が得意で、沼津でも数学を教えていたが、東京で陸軍兵学寮、海軍兵学寮に移り、数学と航海術を担当。その後、いくつか替わった学校でも、一貫して数学の教師で、最後には、旧幕臣の子弟育成のために旧幕臣が資金を出し合って開いた育英學(いくえいこう)の教師を務めた。
 沼津兵学校で教えていた数学は、当時としては優れた内容で知られ、同校教授の塚本明毅が著した『筆算訓蒙』は名著と言われる。
 明治八年、肇が、同じ兵学校で学んだ岡敬孝と共に著した『筆算訓蒙解』では、端書きに塚本に教わる機会があったことを「拱壁(きょうへき=壁を大切に抱えるように、宝物のようなもの)とす」とあり、『筆算訓蒙』が「初めて西洋の算術を学ぶのに宝物のようなものだった」と言い、その数学を解説することを目的としたものだという。岡は、肇の妹の夫。
 明治二十三年に開かれた古物展覧会の出品資料には、肇の出品として先祖が使った甲胃が記されている。真野家の先祖は織田信長の次男に仕え、小牧長久手の戦いでは豊臣秀吉と戦った旗本。
 先祖代々の品を伝えていた家柄を肇も誇りとしていて、後に文二がクリスチャンになった時には大反対だったという。
 文二の最初の妻は二十代で亡くなり、葬式では親せきの姿すら見えず変な雰囲気だったことが、関係者の残した史料で分かる。
 文二の妻もクリスチャンだったが、真野家は代々寺に埋葬していたことから、妻の葬儀はキリスト教と仏式の両方で行ったが、肇は「其怒気は未だをさまらぬものか又は余を見て更に発したるものか身を震はせ言葉もよくはいでず」と怒り心頭だった様子で、文二は「傍らに見る真野氏はいと面目なげに見えたり」とある。
 文二は、その後、後妻をもらうが、この妻も亡くなり、三人目は最初の妻の妹をもらっている。
 次に登場するのは肇の四歳年下の弟である大岡忠良。忠良も兵学校で学んだ。資業生として在学中に名古屋藩の兵学校に教師として招かれた。
 当時、沼津兵学校には他の藩から「教えに来てほしい」という依頼が殺到。教員から生徒に至るまでが各藩に教えに行き、これを「御貸人(おかしびと)」と言った。
 忠良も数学を教えたが、肇のように最後まで教師を通したのではなく、晩年は新聞記者として過ごした。
 樋口准教授によれば、文二の手紙から「大岡という人は正直成功しなかったので、あまり豊かではなかったが、お酒が好きだったようだ」という。
 また岡敬孝は忠良と同期で、沼津兵学校の資業生として最後まで残った六十三人の一人。陸軍兵学寮の教導団に編入されたが、忠良も岡も兵学寮を飛び出し、兵歴をまっとうしなかった。
 岡は報知新聞の草創期を担った経歴を持つ人物達の中で紹介されている。
 「彰義隊に加わった血気盛んな時期もあったようだが、兵営生活が厳しいし、薩長に嫌気が差して飛び出した」のだという。
 樋口准教授は明治史料館に学芸員、主任学芸員として勤務した十七年間、岡について「東京のお墓も調べたが、どこに行った。子孫も見つけ出せずにいる。どこか子孫がいるはずだと思う」と残念がる。
 肇の娘の舅となった飯野忠一も岡らと兵学校の同期で、後に科学の教師となった。
 「真野文二には、こういう親せき、おじさんがいた。数学の先生が少なくなかったということが言える」として、文二が工学方面に進んだ素地があったことを示唆した。
 樋口准教授は「機械工学的なことを沼津で学ぶような機会があったかというと、それはなかったと思う。兵学校の学科には、資業生にも本業生の砲兵の学科にも器械学があった。教科書もノートも見つかっていないので、何を教えたかは分からない」とし、兵学校の器械学については謎だという。
 ほかにも兵学校で教えた機械関連のことを考える材料があり、静岡藩の軍事を担当する部署に軍事係付御職人という肩書の人が二人出てくる。兵学校には大砲や銃があったため銃砲関係の職人であった可能性が高く、小銃の修理や製造などを担当したことが書かれている。
 明治政府の記録の中には、兵学校の残具整理の記録があり、兵学校に残されていた器械を引き上げたことが記され、「兵学校に何らかの器械があったことは間違いなかったようだ」と樋口准教授は最後に、「文二は数学が得意だったことを頭にとどめておいてもらえば、理解が深まるのではないか」と工学との関連を改めて示した。
(沼朝平成22年4月3日(土)号)