2016年1月19日火曜日

「昔、あそこに映画館があった」佐野俊夫

「昔、あそこに映画館があった」佐野俊夫

 沼津朝日元日版の楽しみに「昔の商店街」の紹介がある。今年は「上本通り商店街」で、仙石規先生が害いている。略図で話題になるのは映画館。沼津大空襲で廃墟になった沼津の市民が明るく楽しい気持ちで復興に邁進するように、と「沼津市娯楽機関建設計画」が立てられ、翌年の昭和二十一、(一九四六)年には映画館が六館も建設された。(『沼津市史・史料編現代』)正月三カ日には一万一千人の観客があったという。
 昭和二十(一九四五)年、中学生になって嬉しかったのは、映画館へ一人で入れることだった。国民学校では父兄同伴が規則だったが、食うのがやっとの時代、子どもに付き合って映画館なんかとんでもないことだった。「マレー戦記」や「ハワイ・マレー沖海戦」などは、隊列を組んで映画館まで行進した。そして必ず感想文。そこに少国民としての気迫、決意が不十分だと叱られた。
 中学校だって「学校ニ於テ許可ナキ興行場ニ出入スベカラズ」と「生徒心得」にはあった。見つからずに見るスリルは映画への喜びを高めた。
 ニュース映画などで天皇、皇族が映る時は、あらかじめ字幕に「脱帽」と出る。脱帽し姿勢を正さなければならない。
「やれやれ」と言ったのを特高に聞かれ、検挙、不敬罪で起訴される時代だった。
 怖いのは特高だけではなく、先に入っている上級生に見つかると、校庭の隅で規律違反だと殴られた。こんな理不尽な話はない。
 敗戦後、外国映画の名作が次々と上映された。仙石先生も、「支配人に映写室に入ることを許されたり、特別割引の切符を学校で販売させてもらったり『シネマパラダイス』でした」と同紙に書いている。部員以外の中学生にとってもガクワリ(学生割引)は大きな魅力で、ほとんど座れない満員の映画館で夢中だった。
 昭和二十一年、GHQは「日本人といえども接吻をしているに違いない。作ってみたらどうか」ということで、キスシーンのある映画がいくつか作られた。
 ジョン・ダワーは『敗北を抱きしめて』(岩波書店)の中で、「民衆のエネルギーと不満、本物の変革のための政治や抗議行動をそらすため占領軍当局と保守政治家がすすめた」と書いている。最近の風潮と余りにもよく似ている。
 テレビで言えば、考えたり討論したりし合う番組に代わって、悪ふざけの番組が増えた。しっかりと物を言ったり問題提起するキャスターを交代させる。「一億総参加」ではなく、かつて大宅壮一が指摘した状態そのものではないか。
 昭和四十六(一九七一)年、名門の日活は経営不振を挽回すべくロマンポルノ路線に転換した。毎月六本、セックスシーンを適宜入れさえすれば興行面での圧力は少なく、どんな脚本をどう撮るかも自由ということは、若い才能に活躍の場が与えられた面もあり、八〇年以降の日本映画を支えた人材が輩出した。
 昔、映画館通いをしていた「映画漬け」達も、すっかり老いた。今は、家にこもってテレビを見ているという。歩くのが大儀になったこともあろう。
 「映画は映画館で見なくては…」と力説していたのは、この映画を見ようと決意し、映画館まで出かけて行く。一人になりきって画面と対決する。テレビでたまたま、この映画をやっていたので、くつろぎながら見るのとは異なる。 「沼津には、もう映画館はなくなってしまった」という。いわば「複合映画館」と言われるシネコンが誕生したのは九三年。今は全国ほとんどこの形態だという。映像、音響の設備に特に工夫を凝らし、映画館の形態を変えた。
 新しいものにためらいがあったり、昔ながらの映画館への郷愁からシネコン嫌いだったら挑戦が必要だ。今どきの映画や若者達の主張を知るには、出かけてみることだと思う。(住吉町)

【沼朝平成28119()号】

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