2013年3月31日日曜日

代戯館まつり 樋ロ雄彦教授が記念講演

「地方が最後の輝き放った時代」
近代教育の先駆けとなった代戯館
第10回代戯館まつり記念講演会が二十三日、沼津信用金庫本店四階ホールで開かれた。同まつりは十年の節目を迎え、今回の取り組みで終了する。
掟書が他校規則の範に
代戯館まつり 樋ロ雄彦教授が記念講演

代戯館は、明治初年に現在の第一地区に存在した沼津兵学校の附属小学校で、第一小学校の前身。兵学校頭取の酉周(にし・あまね)が西洋の学校を参考にして制度を整え誕生したもので、藩校や寺子屋といった、それまでの教育機関とは異なる、我が国最初の近代的小学校として知られる。
代戯館跡地近くの上本通り商店街の有志などで構成された代戯館まつり実行委員会では毎年、沼津信金本店横のぬましんストリートギャラリーを使って沼津兵学校と代戯館ゆかりの人々を市民に紹介してきた。
最終回となる今回の記念講演では、国立歴史民俗博物館教授で元明治史料館主任学芸員の樋口雄彦氏が「藩内外に広がった沼津兵学校附属小学校の影響」と題して話した。
樋口氏は、明治元年に作られた代戯館の設置規則「沼津兵学校附属小学校掟書」を取り上げ、その内容が他の学校にいかに影響を与えたかについて論じた。
樋口氏は、掟書を通して見えることとして、庶民子弟の入学も許可するなど身分の壁を超えた学校であったこと、科目として武芸ではなく体操(体育)を取り入れたこと、教員による学校外での個人指導に制限を付けて私塾の気風を脱却しようとしたことなどが、それまでの教育機関とは異なり画期的だった、と説明。
また、生徒が学校の備品を壊したら保護者に弁償させることや、素行不良の生徒については家庭の責任で「折橿(せっかん)」を加えること、頭取(校長)は生徒の賞罰についての権限を持っているが体罰は厳禁だったこと、といった規則があったことに触れた。
掟書の各条文を解説した樋口氏は、掟書が他校の規則に与えた影響として、名古屋県(現愛知県)、印旛県(現千葉県)、宮崎県、鹿児島県などの小学校の規則を挙げ、これらの規則の中には代戯館の掟書の条文と類似していたり、同じ語句が使われているものが複数あることを指摘。明治五年に新政府が学制を発布し学校制度を整備するまでの数年間、代戯館の規則が日本各地の小学校の標準規則として機能していた、と結論付けた。
代戯館の掟書が全国に広まった理由としては、兵学校と代戯館を設置した静岡藩(徳川家)が各地に人材を派遣する「御貸人」という制度を持っていたことや、沼津兵学校出身者が各地の地方役人として採用されたことなどが挙げられるという。
最後に樋口氏は、各藩が高度な自治を行っていた江戸時代を「地方の時代」と呼び、明治元年からの数年間を「中央一極集中が始まる前の、地方が最後の輝きを放っていた時代」と位置付け、その時代に一地方に過ぎない沼津の学校が全国に大きな影響を与えていたことの意義を強調して講演を終えた。
続いて聴講者からの質疑となり、代戯館では女子の入学も認められていたのか、との質問があった。
樋口氏は、女子向け教育が行われていたと見る研究者もいるが、その確証となる一次史料は存在しない、とする一方、代戯館の分校だった沢田学校所(現金岡小)の明治四年以降の記録には女子が習う教科についての規則が残っていることを紹介した。
代戯館まつりを終えるに当たり、上本通り商店街振興組合の長谷川徹理事長は「本町など他の商店街には江戸時代からの伝統があるが、上本通りの宝としては何があるか、という思いで始めた。はじめはわけがわからないまま手探りで、どうにか第一回に漕ぎつけた」と振り返った。
代戯館まつりに携ってきた元沼津信金理事で沼津法人会専務理事の溝渕俊次さんは閉会のあいさつで、「百四十年前の沼津の地には先進性が宿り、全国に影響を与えていた。こうした理念は現在の沼津にも必要ではないか。また、もしできるなら、沼津兵学校の群像が大河ドラマで取り上げられたら」と述べた。
沼朝2013年(平成25年)3月31日(日曜日)

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